包丁

ダンッ! ダンッ!という何かを叩き割る音を一定のリズムで響かせながら、私は考えずにいる。


音の正体は戦車のキャタピラを出刃包丁で一定のサイズに切り分けているからで、その作業を私は何も考えずに出来る位に習得していた。一応は職場で「熟練」という扱いを受けている。まぁ、コツさえ掴めば簡単な仕事だ。


いつ頃の昔だったろうか、ある日、目を覚ますと黄色一色の部屋で私は猿轡に始まって、体中のいたる所を縛り付けられて固定され、目を背けられない状態で目の前には部屋と同じく黄色に染められたテレビで末期ガンの患者みたいな顔をした老人の血が黄色に編集されたスナッフビデオが無音声で再生されていた。


薬か何かを盛られたのか手足はしびれて動かず、声を出そうにも蚊の羽音よりも小さなうめき声を上げるのが精一杯、それでも見える情報を脳に刻み続けるくせに思考をするには虚ろ過ぎる脳味噌で必死に現状を把握しようとしたが、思いだすのは眠る直前に「あしたま!っ」を見ていた事だけで、何もわからずに居るしかない状態だった。


しばらくその状態で出来る限り抗っていると、私が目覚めた事に気づいたのか、どこからか音声が聞こえてきた。
「こんばんは、いや、君にとっては「おはよう」かな。察するに、現在の君はかなりの混乱と動揺に見舞われており、この声を聴きながらもその頭に湧いている数々の質問をぶつけようとしていると思うのだが、まずは私の声を聞いて欲しい。今の言葉がわかったなら、右目を三回ウィンクしてもらえるかな。それから話を始めたい」


彼に提示された以外の行動をとってもおかしくは無かっただろう。彼の言葉を聴く事も無く出せる限りの声で「ふざけるな!」と言う事をしてもおかしくなかったはずだ。だが、私は彼の言うとおりにうまく動けないからか、目の前のスナッフビデオのようになる自分を想像してしまった恐怖からか、ぎこちないウィンクを三回した。その後はお決まりの「従うか、死ぬか」という提示をされ、YESを意味する右の目で、またウィンクを三回した。左の目でしていたら今頃はあの黄色のテレビで放送されていた側だったと強烈に感じる事が今でもある。


彼が提示した生存の状況は実に不可解な代物であった。「規則正しく生活をし、ある労働に従事して貰う。ただし、空いた時間は君がどうしようと構わないし、私が用意できるものなら何なりと提供しよう」と言う言葉の通り、私は閉ざされた空間ではあったが欲しい物が全く手に入らない訳ではなかった。他の人間とやり取りをするための道具は手に入らなかったが、本やCDや新聞なら何でも手に入った。


私達は個々に部屋を与えられ、本当に就寝時間から起床時間、それと労働時間以外はどこに居ても構わなかった。与えられた環境での生活は睡眠時間も食事も十分に与えられ、「声」は実に紳士的で知的な話題に富み、私がいかなる話題について話しかけようとその話題を更に発展させる楽しい返事を返してくれた。しかし行っている作業や何故ここに監禁されているのか?という意味を聞く事はタブーとされた。


そのうち、私はどうにか暮らす事が出来る様になってきた。言うなれば、ここは「学校」と同じで、規則にさえ従えば何も問題はないのだ。そのうえ考え方さえ変えれば、目の前に出された課題は難しいものではないので、それらより遥かに楽だとさえ思える時があった。閉塞空間の故か、そのコミュティにさえ溶け込めれば隣人は敵ではなく同士でもあった。ある意味で理想郷と言えるかもしれない。ただ、規則を破った時は一変するのだが。発狂する人間が出れば、我々は自室に追いやられ、そして廊下から聞こえる声を聞いて想像して震えた。そして自室から出れるようになると、常に廊下一面から鼻を突き刺す消毒液の臭いが強烈に残っているだけで私達の世界はまた同じ状況に戻るのだった。


皆、心の底では発狂した者の理由をわかっていた。だが、彼らと同じ目に合う事が何よりも恐ろしくて目を反らした。私もその一人だから、今もこうして機械的なリズムで出刃包丁を振るっている。何故こんな事をするのか? そもそもコレは本当にキャタピラなのか?なんて事はわからないが、そんなことを考えてはダメなのか。きっと、意味を考え出したら、思考の迷路に呪われて死ぬしかなくなってしまう。そこに人間性と呼ばれる物、つまり支配されていない事の理解があるとしても、我々は思考をしては生きていけないのだから。


だから「何故、今日の朝食はカツ丼だったのか」「何故、地球は丸くなったのか」「何故、人は何かを好きになったり嫌いになったりするのか」「何故、人は争うのか」「何故、ラグビーラグビーと言うのか」「何故、私達は生きていると思っているのか」なんてことは考えてはいけないのだ。ただ、包丁を振るって適当に生きればいい。それだけが私の生きる道なのだ。いや、だめだ、それだと包丁を振るう事に意味を見出している。私は生きたいという欲望を叶える為という意味を包丁に込めている。それじゃダメだ。ダメだ。ダメだ。


気が付くと、私の左手の指が無くなっていた。ああ、最後に残った指だったのに。でも、きっとこれからもこんな日々だから無くても平気か。